あくまでも個人の見解です

個人の見解を残す為のブログ(育児、仕事 等)

子どもの怒り方を怒られる

子どもへの怒り方、みんな心配してるよ

 

きょうだいから言われた。

確かに自覚は、ある。

時に威圧的に、乱暴に、怒りをぶつける自分がいる。

 

そういう時、子どもが委縮しているのも分かる。

そうでなく、反抗的な態度の時もある。それは更にまた自分の怒りを増幅させて子どもに向かう。

悪循環。

 

アンガーマネジメントは仕事の研修で学んだ。本も読んだ。

感情のまま、威圧的に子どもを怒ることの悪影響テレビや新聞で目にしたことがある。何度も。

 

研修や本、テレビ等で情報に触れた後しばらくは意識して怒りをコントロールできる。

でもそれもずっとは続かない。

気が付けばキツイ言葉を投げつける自分。

 

はよ起きぃ言うてるやろ!何回言わすねん!

はよ食べぇ!さっさと準備せぇ!

てめぇ分かってんのか!

 

毎朝何時までにご飯食べて準備して集団登校の場所に行く

この毎日の定例事項にいつまで経っても間に合わない。

 

その度、今日もまた、今日もまた、今日もまた・・・期待しては裏切られての繰り返し。

それがまた怒りを増幅させる。

親が勝手に期待して、勝手に裏切られてるだけやのにね。

 

 

今日は昨日より自分の怒りをコントロールできた。

 

すぐに完ぺきにするのは無理や。

明日は今日よりも少し進歩することを目標としよう。

【読書所感】生物はなぜ死ぬのか

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久しぶりに本を読んだ。

「生物はなぜ死ぬのか」

 

なんのために、どのように生きるのか考えるのが好きで、「生物はなぜ死ぬのか」を読むことでその逆の生きる意味や目的がなんとなく見えるのかなと期待して購入。

 

前半は遺伝子のこととか生物学のあれやこれや専門用語が出てきて全然頭に入らんかった…。

今でも頭に残っているのは「生物の進化の結果として死ぬような個体が生き残った」というような言葉。

あと、「変化する環境の中で生き残る確率を高めるため」のようなくだり。(実際にはもっとちがう言葉で表現されていたけど)

 

後述の「変化する~」は、次世代(こども)をつくる時、両親のそれぞれ異なる遺伝子が組み合わさって、新たな遺伝子のの組み合わせの次世代ができることで両親よりも多様性に富んだ次世代が生まれるわけで、多様性に富むということは様々な環境の変化に対応できる可能性が親よりも高い=環境が変化しても生き残れる可能性が高いということ。

職業柄(前職)、企業の生き残り戦略も同じだなと思った。

バブルと言われた全ての仕事が右肩上がりの時代の栄光から抜け出せず、当時築いた資産を取り崩して生き残っている(というか生かされている)企業は、そうした時代の変化に対応するための自身の変化が足りない(あるいは間違っている)

そんな企業は次世代のために…と思うのは間違いでは無いと改めて確信した。

 

産業の新陳代謝とか、経営者の保証を付けない融資で立ち直りを、とかよく言われるようになったけど、やっぱり人も企業も退場すべき時に退場しないといけないじゃないかな。引き際を見極めるというか。

 

企業そのものが100年とか長く続くのが悪いというつもりはなく、中身がマイナーチェンジし続けられている企業はやっぱり生き残れる企業も多いんじゃないだろうか(もちろん間違った方向への変化でつぶれることもあるやろうけど)

 

局面次第では変化をせずその場にとどまり続けることが正解の場合もあるやろう。でも、自分自身の方向性としては、変化に対応できる柔軟性を重視していきたいと思った。

 

 

なんの話や。

ばらばらな人たちを整える

サークルの運営

家族の生活

職場のコミュニケーション

 

人と人が関わる場には、必ず摩擦がある。

 

その摩擦を摩擦のまま放置するのではなく、

前向きに、プラスの方向に整える。

 

その整った関わりを、側から眺める。

 

摩擦していた人たちが、互いに順回転となる。

 

そこに喜びを感じる。

 

三者的ではなく、当事者として関わる。

 

 

そんな仕事に携われたらいいなと思った今日この頃

真剣

100カメという番組でボディービルについて放送してたけど、選手本人が真剣に取り組むのはもちろんのこと、家族や友人がそれまた真剣に応援して、結果に対して真剣に一喜一憂してる姿を見て、非常に感動した。

 

ボディービルそのものに興味はわかへんかったけど、真剣に取り組む姿は周りに感動を与えると学べたことそのものが、非常に良かった。

 

真剣に取り組めて、かつ子どもたちに応援してもらえるようなものなんか探そ

深夜と感傷

音が少なくなると、頭の中でぐるぐると考え事が巡る。

そういえば何かで、人は暇になると悩みを作り出すと聞いたことがある。

 

深夜と感傷はとても相性が良い。

そこに独りが加わると、それはもう感傷的にならざるを得ない。

 

漠然とした自分の人生について考えるよりも、目の前の仕事や子どもたちの将来を考えることが圧倒的に多いこの頃。

たまに訪れる独りの深夜には、ついつい自分の人生について考えてしまう。

 

このままでいいのか?いや、もっといい選択肢があるはずや。

今よりも悪くなる可能性もある。家族を巻き込んでいいのか?

 

自分の現在地の延長線にある未来予想図を、自らの手で書き換えようとすることは間違ってるのやろうか。

 

周りから求められる自分と、自分が求める自分と、そのギャップはいつまで経っても埋まらん。

 

子どもに、「自分の思ってることはちゃんと言わな相手に伝わらへんで!」と言うたび、胸が痛くなる。

それを一番できてないのは、自分や。

 

そしていっつも思考の迷路にはまる。

 

どこまで、どのように言うべきか。

これは非常に難しい問題や。

 

だから、いつも我慢。

そう、そして今日も・・・。

混沌の社会とメンタル

適応障害による休職から職場復帰し一年が経過。

最近は仕事で残業も多いけど、去年の休む前と比べるとなんてことない毎日。

 

ただ一つ、大きな出来事が起こった。

同じチームの人がメンタル休職してしまった。

 

まさか、去年の自分に起こったことに、近い人がなるなんて想像もしてなかった。

その人の仕事を自分が一部肩代わりすることも、想像なんてしてなかった。

 

「すまんな、迷惑かけてしまって」

 

上司が、休職された方の仕事をやることになった我々にかける言葉が、心に刺さる。

 

 

自分が去年休職していたころ、こういう風に思われてたんかな、と。

 

確かに、それは仕事のしわ寄せをくらった人に対してかける言葉としては、ごく自然なものかと思う。

 

でも、休職したから分かる。

その言葉は、休職者を切りつける言葉やということを。

 

一方を擁護するため、一方を非難する。

陰と陽、光と影のような分断を生む。

 

果たしてそれでいいのか。

 

それが人として正しい選択なのか。

親として、子どもに対して、自分が行ったそれは胸を張って言えることなのか。

 

今は擁護される側にいる自分は、正直居心地は、良い。

なぜなら、周囲のネガティブな感情が、自分には向いていないと、ひしひしと感じ取れるから。

しわ寄せされて仕事によって、自分の居場所がここにあるんだと、より強く感じさせるから。

 

果たしてそれでいいのか。

 

白と黒、はっきり色分けされた世界は、ある種正しく、そして自分の心に真っすぐになれる。

 

でも、自分が生きている社会はそうじゃないはず。

 

時には0で、時には10で、時には100で、時にはマイナスで

 

生活スタイル、家庭の事情、仕事への思い、他者への思い等々、様々な背景が混沌としているのが人間社会や。

 

心の底から理解はできなくても、まずは理解しようとするとこから始めなあかんな。

 

 

今日と明日と混沌とした時間帯に、仕事の疲れで混沌とした頭で綴った文章やから、書き方も内容も混沌としてるわ。

 

あーねむ

急がば回れない

私には二人の子どもがいます。

5歳と2歳、性別はいずれも男。

 

子供たちと関わると、育児とは「急がば回れ」やなと気付かされる事が多い。

 

朝起きる、トイレに行く、着替えをする、ご飯を食べる、歯磨きをする、顔を拭く、保育園に行くために玄関へ行く、車に乗る、車から降りる、駐車場から保育園に向かう、下の子を預ける、上の子を預ける

 

毎朝、ざっと考えただけでこれだけの「急がば回れ」ポイントがある。

 

朝は時間がない事が多いから、ついつい早くしなさい!的な感じで怒ってしまうけど、そうすると大概泣いたり機嫌悪くなったり、余計に手間かかったり後味悪くなったりしてしまう。

 

そこを、早くしなさい!という気持ちを少し我慢して、例えば朝起きる時も、一緒に起きようと声かけるだけで、子どもが機嫌よく起きてくれることもある。

 

ただ、トイレ行かない!とか、靴下はこれイヤ!とか、靴はこれイヤ!とか、保育園行かない!とか、毎日何かしら、イヤイヤの重層攻撃に見舞われるから、理想どうりにはいきません。

 

結局、

 

早よせぇ!!

 

と、喝を入れる毎日です。

反省。